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本の紹介

『閉じこもるインターネット-グーグル・パーソナライズ・民主主義-』イーライ・パリサー (著) 井口 耕二(訳)

<わたし>は<わたし>の趣向の蓄積を乗り越えられるのか

本書の主旨は、『WebやITを活用した様々な生活環境で情報のフィルタリング技術の高度化によるパーソナライゼーションが過度に進むと、1:思わぬモノとの出会いがなくなり成長や革新のチャンスが失われる。2:パーソナライゼーションが高精度化すればするほど思考や教養は偏狭になり、それがまたフィルタリングに反映され偏狭さを先鋭化させるので思考や教養はタコツボ化していく一方である。解決策:よって、ユーザーはもっとパーソナライゼーションの在り方について組織的にコミットしよう。そしてフェイスブックやグーグルに、ひいては政治に対して、個人情報という資産の扱いについてあるべき理想の未来を検討するよう訴えよう』というもので、それを延々様々な事例を引きながらひたすら繰り返すという内容となっている。

本書の主張内容自体に大きな異論のある人はいないだろうが、おそらく「パーソナライゼーション」について、今後検討するべき興味深いポイントはむしろこの何気なく記された箇所、「この調査をしていて驚いたのは、パーソナライゼーションやフィルターバブルの影響を把握するのがとても難しいという点だ。グーグルで検索パーソナライゼーションの窓口を務めるジョナサン・マクフィーは、アルゴリズムがどのような形である特定のユーザーの体験を形成するのか、それを把握するのはまず無理だと語ってくれた。追跡する入力項目と変数が多すぎるのだ。だがら、クリック全体を見ることはできても、それが、あるユーザーにどういう影響を与えているのかを把握するのはグーグルにさえもできない(p24)」という点にあるのではないだろうか。つまり、情報量の膨大さと関係の複雑さによって、パーソナライゼーションの仕組みそのものが、もはや誰も恣意的にコントロールすることができないような代物になる可能性があるということである。

しかしそうだとすると、いわば「一周回って」パーソナライゼーションはほとんど問題とならないのでは? とも考えたくなる。ユーザー自身が自明のこととして「いま受け取っている情報は、パーソナライゼーションされたもので、自分でも認識できないような蓄積された<わたし>の趣向という強いバイアスがかかったものだ」と意識するようになれば、それは「自分のこの考え方や価値感は極めて欧米先進国的な偏見に犯されているのかもしれない」と自問しながら生きる現代人と大きな違いがあるとは思えないからである。

もちろん、主義主張の問題といわば“暮らし”に密着した問題を混同するのは滑稽だろう。確かに、パーソナライゼーションの高度化によって、わたしたちが、あらゆる日常的な選択において、無意識にコントロールされているかもしれない、という危機感は“生き方”とはまた別の問題ではある。

しかし、結局のところ、グーグルですら「アルゴリズムがどのような形である特定のユーザーの体験を形成するのか」をコントロールできないのであれば、問題はパーソナライゼーションされた情報の最終的な成果を「だれがどのように」使うかという問題である。つまりこれはパーソナライゼーションに規制や監視の眼を向けようという話ではなく、パーソナライゼーションをもっともっと高度化させ、システムをブラッシュアップさせていこうという話になるほかないと思ってもよいのではないか。その高度化・ブラッシュの方向性に、ターゲッティングの高精度化に加え「偶然性」や「社会的優先度」を持たせるにはどうしたら良いかという、これまで抜け落ちていた課題がいま突きつけられているのだと考えて良いのではないかと思う。

これまでは、フィルタリングのための情報収集や処理が低レベルだったために、つまり入口や工程がまだまだ稚拙だったことにより、出口にあたるパーソナライゼーションされた情報は、実はユーザーにとって「適度に低精度」だった。しかし、いま高レベルのフィルタリングが可能になり、高精度のパーソナライゼーションがアウトプットされてくると、<わたし>という価値判断の主体や<社会成員>としての使命を容易に見失ってしまう危険性が非常に高く、またその事態そのものをもはや認識できないという大きな問題があるということだろう。

技術革新の宿命を考えると、仕組みを稚拙なままの状態に留め置くということはできないから、結局は入口で対応するには規制や監視しかない。しかし、本質的な問題解決としては、先に述べたように、つまるところよりパーソナライゼーションを高度化するしかないのである。いわば「高度化」の価値基準に、より「複雑で曖昧で、ときに透明な選択が可能」という項目を付け加えるのである。

十分に成熟した技術が、最終段階で「曖昧さの獲得」を目指すのは特段珍しいことではない。パーソナライゼーションが十分高度化すると、「フィルタリングされなければ絶対にレコメンドされることもなかったような<まったく無関係で無関心>なトピックにわたしが出会う、といういわば逆パーソナライゼーションのような機能」も可能にある、というイメージが必要だろう。しかし、その時そのトピックは、それでもやはりそれまでの情報の蓄積をフィルタリングされてレコメンドされたものだから、結局はアルゴリズムの奴隷では? となってくると、これはもうむしろ人間にとって「とっても古い」領域の問題といえるだろう。<わたし>とはなにか。どこまでが<わたし>本来の価値判断と言えるのか。国や時代や、家庭環境に<つくられたわたし>と<ほんとうのわたし>の境界は存在しないのではないか。など、いにしえから続く人間の“難題”にITテクノロジーがようやく中心的なテーマとして関わるようになってきた、と考えるとより興味深いと思っているが、そうなるともちろん本書の論旨とはずれる。本書が主張するようにパーソナライゼーションについて実務的な整備や処理しなければいけないことがあるという点については論を待たないだろう。

なお、もっと他の前提でいえば、カウンターカルチャーを通過してインターネットの世界を発見したアメリカ人には、他国の人以上に「インターネットに見た特別な夢」というものがあり(多分あるようだ)、それがいま挫折しつつあることへの寂寥の思いが深い、という文脈で読めればより興味深いのかもしれない。

余談ながら付け加えると、「You are what you buy.」とは00年代中盤に掲げられた丸井EPOS CARDのキャッチコピー。この言葉がもはやコピーとして成立しないほど現実化しつつあると思うと、時間の流れの早さをいまさらながら考えざるを得ない。

 

 

 

 

 

 

 

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閉じこもるインターネット―グーグル・パーソナライズ・民主主義
イーライ・パリサー (著), 井口 耕二 (翻訳)
単行本: 344ページ
出版社: 早川書房 (2012/2/23)
言語 日本語
ISBN-10: 4152092769
ISBN-13: 978-4152092762
発売日: 2012/2/23