• HOME
  • COLUMNS
  • 『維新の洋画家 川村清雄』展@東京都江戸東京博物館【展覧会紹介】

広告やデザイン、クリエイティブの情報コラム

特集記事

『維新の洋画家 川村清雄』展@東京都江戸東京博物館【展覧会紹介】

「忘れられた天才」という、まことに魅力的な惹句を付されて再発見されるような存在には、いつもわくわくさせられるものです。
御承知のように芸術という分野でも流行りすたり、大げさにいえば毀誉褒貶というものは激しいもので、大きくは百年単位に及ぶ間隔をへだてて価値下落や再評価は繰り返され、たびたびこのような現象が起きます。
日本の美術で再評価というと、ここ十年ほどでもっとも目覚ましいものが、やはり伊藤若冲人気の怒涛の躍進でした。ただこれは再評価というよりは、これほどに人気が一般化したのは初めて、といったほうが良いかもしれません。日本の美術表現においては、ある種の解像度の高さはあまり「上品」ではないものであり、伝統表現の文脈に則って対象を見る手法からは少々逸脱した目を持っているとみなされていたのが、若冲でした。
そして若冲の活動期に遅れること百数十年、川村清雄の画業とその評価も、同じような軌跡を辿っているように私には感じられます。

時代の空気から一歩距離をおいて

川村清雄は幕末に生まれ、前半生は徳川家旗本の跡取りとして育てられました。
当時の高級武士の嗜みとして、「書画」というワンセットの教養はかなり大きな意味を持っていましたが、それらはあくまで教養として修得するべきものであり、それ以上の価値は持ちません。極端にいえば、趣味ですらあり得ません。作法であり、武士という階級の持つべき道具、というのが正しいところかもしれません。
――と、いうものが、江戸的な武士のスタイルでした。
幕末を迎えると、世情は一気に不安定になります。身分と組織と前例で成り立っていた社会の秩序が崩れ始め、個人の力量が試される時代がやってきます。
そのような風潮のなか、絵画が、新たに西欧文明の持つ先進のテクノロジーのひとつとして武士たちの前に立ち現れます。作法や教養であった書画の世界から、科学や技術に資する生産的技術としての絵画。酒井抱一のような条件に恵まれた(彼は大名の子息でした)幾人かを除いて、芸術的才能や志向が芽生えたとしても、それを自らのうちにむりやり押し込めなければならなかった江戸期のサラリーマン武士たちにも、堂々と刀を絵筆に持ち替えて活躍するチャンスが訪れます。典型例が、本年大規模な展覧会が開催されて話題になった(教科書に載る鮭の絵で有名な)高橋由一です。彼は地方の藩士として生まれ、刻苦勉励の後に筆一本で幕臣に取り立てられ、侍らしい木強な筆致で頑固な画風を守り、黙々と現実を油彩画に写しつづけました。
川村清雄もむろん、そういう時代の子として西欧の絵画技法を身につけます。
しかしながらその画業の位置づけは、当時西欧絵画の技法を足掻くように会得しようとした高橋由一たちの上昇志向からもたらされるものとは、相当異なります。――伊藤若冲の画業が、同時期の絵画からなんとも言えぬ隔絶を見せているのと同じように。

海外留学で体得された近代芸術への嗅覚

筋目の良い旗本の師弟として、川村は大政奉還後に静岡に移されることになった徳川家の新当主、まだ幼い徳川家達に近侍することとなります。簡単にいうと遊び相手ですが、静岡行きの直後にこの時の仲間たちはまとめて徳川家派遣の留学生としてアメリカに送られることとなります。出立に際して川村は大久保一翁に「お前は他のことはいいから得意な絵だけをやってこい」と声をかけられ、これがその後の彼の人生を決めることになりました。
江戸幕府の派遣でもなく、明治新政府の派遣でもない留学で培われた彼の画業は、国家に対する貢献や社会的実用性の要求を背景としていません。幕末から明治にかけてのサムライ洋画家たちの画業の背景には、「これは遊びではないのだ」という気迫が――良くも悪くも――込められていましたが、そういうものともあっけらかんと無縁です。大胆にいってしまえば、日本で初めて純粋に近代的な芸術としての洋画を描いた画家、ということになるのではないでしょうか。

彼の留学は十年に及びます。
しかしその時期は、現在の視点から改めて考えてみると、なんとも微妙なものです。
明治初年の、日本が手探りで諸制度を整備する時期と、その整備された諸制度を運用するべく育てられたテクノクラートたちが日本を支配する狭間の時期、と表現するのが良いかもしれません。
ことは美術においても同様です。開拓者というには少々遅く、新時代の運用者としては早すぎる時期に海外でひたすら画技を磨いた彼は、帰国後きわめて困難な位置に立たされます。

評価自体が不可能な場所へ

古くさくもなく、新しくもない――芸術において、同時代にこのような存在として受け取られることの困難さはいかばかりか。彼の芸術は、もともと後世に再発見される運命にあったのだ、とまで言いたくもなりますが、もちろん、同時代に全く理解されないというたぐいの特殊なものではありません。ただ単に、前時代の西洋画黎明期の野暮ったくも力強い「油画」でもなく、明治後期に画壇を支配する黒田清輝たちのような印象派的画風でもないという、独自なものがあっただけです。彼を一生庇護し続けた勝海舟や、川村の晩年に日本を訪れて偶然彼の絵を知って惚れ込み、フランスに彼の絵を紹介してルーブルで寄贈式まで挙行したシルヴァン・レヴィのような存在があったのを見ても、十分に理解者には囲まれた生涯とはいえるのです。
彼は彼の描きたいやり方で風景を描き、人物を描いただけのことでした。そして彼の絵は次第に時代の文脈から離れ、不思議な小宇宙を形成することになりました。

知られざる巨匠洋画家の独自性

いささか、川村清雄という魅力的な人間についてのみを語りすぎたようです。
彼の絵について一言でその特徴を表すとすれば、その「不思議な清明さ」ともいうべき空間表現でしょう。江戸でも明治でも、さらには日本でも西欧でもないような不思議な時空が、特に彼の風景画の大作には表現されます。今回の展示のなかで対峙していると、自分がいかなる時代のどの国の作者の手になるものを見ているのか、まるで掴めなくなるような奇妙な感覚に襲われます。力強く描かれた瑞々しい川や海には、引き込まれるような清浄感と、肉厚な質感が交々に現れます。この「どこでもない空間」の奇妙さと、清浄感と質感の不可思議な並立が彼の特質であり、そのみごとなまでの天才的な偏り、そのコントロールぶりこそが、現在再評価される独自性の核心であるに違いありません。

少々しつこくなりますが、ここで再度、伊藤若冲の名を引きたくなります。
天才はしばしば時代の文脈から浮き、百年単位の時を経て再評価されますが、川村の画業も若冲に同じく、自分の目と手のみを信じたゆえに、再評価を待たねばならなかったということになるでしょう。ディスプレイ越しに複雑な視覚経験を日々積んでいる私たちは、若冲や川村のこのような表現を最後まで理解できなかった人々の事情がよくわかるのではないでしょうか。つまり、彼らはこの高解像度を前提とした偏りの強い視覚体験に耐えられなかったということです。若冲の稠密な表現とは異なりますが、川村の創造するスピードと滞留が並立する画面の空気感にも、日々進化する視覚体験を経つつあるわれわれ現代人――しかも、ある種の絵画的表現文脈は遠く記憶に響く日本人――でなければ感受できないものがあるように思えてなりません。ぜひその体験を、会場にてどうぞ!(会期期間は今週末まで!お早めに!)

・・・
『維新の洋画家 川村清雄』展

会期:2012年10月8日(月・祝)~ 12月2日(日)月曜日休館
時間:9:30 ~ 17:30(土曜日は19時30分まで)※入場は閉館の30分前まで。
会場:江戸東京博物館 1階展示室(東京都墨田区横網1-4-1)
主催:公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都江戸東京博物館、読売新聞社
後援:イタリア大使館、フランス大使館、明治美術学会
HP:http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/exhibition/special/index.html

・・・
※川村清雄については、現在、目黒区美術館でも『もうひとつの川村清雄展』が開催されています。
こちらは12月16日(日)まで。