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特集記事 本の紹介

『古道具その行き先 坂田和實の40年』展@渋谷区立松濤美術館【展覧会紹介】

不思議な展覧会です。作者もわからない、正確な時代もわからない、なんだか古びたモノが並んでいます。いや、よく見るとさほど古くはなさそうなものもある。これは……美術品、なのか? どう見ても、ただの雑巾のように見えるものがさりげなく壁に展示してあります。うーむ、と出品リストを見ると、堂々と「雑巾」と書いてある。雑巾はやはり、雑巾なのでありました。

古道具の世界での価値転倒に挑む

かつてマルセル・デュシャンは白い便器にサインを入れ、堂々と作品として展示して物議を醸しましたが、今やそのような価値転倒すら芸術的な表現行為においてはまず教科書の中で学ぶような、ごく古典的なふるまいとなってしまいました。もう既に、アートというものは本質的価値の共通認識が得られない不分明な時間を長く経ています。誰かが既に何かをやっている。芸術的価値の創造とは、もはやあらかじめ用心深い検証を経た後に、あらゆる既存の選択肢の中からなにものかを選びとるところからまずは出発せざるを得ないかのような行為になっているかもしれません。
そうなると、この展覧会の意味も逆に浮かび上がってくるように思えます。

坂田和實氏の仕事は、「古道具屋」です。
この名称には様々な含意があって、坂田氏の場合、古道具という概念は、古美術を取り巻く大きな円のようなものでしょう。また、こう名乗ることに自らの矜恃を慎ましくも頑固に示しているかにも見えます。
本来、古美術商という職業は、既存の価値の集大成の上に立つ仕事です。真贋は絶対値であり、その唯一絶対の最高値に到達し得た者が勝利し、美の配給者としての喜びを得ます。
しかしそこには、発見の喜びはあれど、そこが日毎に価値の創造が行われる現場とはなかなか言い難いものがあります。
坂田氏もこの職業に就いた当初は、世間で尊いとされるもの、美術史上評価されるもの、そして市場で評価されるものを懸命に追い求めたようですが、ある日、「フト、それらの物が少し重くて、うっとうしく感じるようになってしまいました」(図録より)。言葉は遠慮がちですが、これはこの業界にあって、白い便器にサインを入れて店頭に置くような覚悟であったように思うのです。

日常にずっしりと置かれた「弱さの美」

冒頭で申し上げた雑巾は、額に入れて飾ってあるわけではありません。かつて使っていたであろう人の周囲にあったような空気をまとって、静かに壁面に佇んでいます。近くには、アフリカ・マリのドゴン族の住居に使われていた木製の扉が、象徴的な意味を予感させる素朴で力強い突起のレリーフを見せて、壁に立てかけられています。この上もなく稚拙で、それだけに思いの強さを感じさせるロシアの木製イコン。標識のように立った巨大で細長い、それだけに強い権威を感じさせる鉄製のナイジェリア通貨。実用を極めた質朴なデルフトの白窯。駄菓子の硝子壺。金網。テーブル。玩具。――それらすべてが、それだけでは到底存在し得ないような「弱さ」を抱えたものです。この愛すべき存在たちは、坂田氏の目によって選別され、独自の「弱さの美」ともいうべき新たな生命を吹き込まれたということになるのでしょう。これらのある種断片的な存在を組み合わせることによって、氏が「少し重く」感じたような、声高なもので構成される完璧な美的世界だけでは決して成り立ち得ない私たちの生活に、静かな生気を与えるような美の世界を坂田氏は提示しているように思えます。

制度から遠く離れ、古き「もの」とひたすら対峙する

あるいは、柳宗悦が提唱した「民藝」の思想の新たなスタイルをこの展覧会に感じる人もいるかもしれません。もちろんそれも大いに正しい観点のように思えます。坂田氏も再三柳には言及されており、先人として尊敬の念をお持ちです。しかし柳と坂田氏の間には、当然ながらこの国の辿った長い時間の隔たりを感じるのも事実です。
おそらく柳は、既存のさまざまな価値に対抗するにあたって、民藝という「強い美」を措定せざるを得なかったのではないでしょうか。柳の時代、ナショナリスティックな圧迫に対抗する原理を作り上げるにあたって、同じくナショナリスティックな手口を使うという曲芸的な技が民藝運動そのものでした。そこには運動という形態を採らざるをえない時代的な切迫感が感じられます。運動という形態を取る以上、そこにはどうしても理念先行の場面が生じるのは避けられません。そして民藝運動を担うのは誰なのか――民衆なのか、作家なのかという問いが(ごく簡単にいうならば)立ち現れます。その結果、民藝そのものも、先鋭化と凡庸化という、その二極分化がそもそも民藝自体の概念と矛盾しているというような、ある種の袋小路に至るような変容を遂げざるを得なかったのです。
坂田氏と私たちの生きる現在のこの国では、もはや柳の掲げたような手段で「強い美」と対抗する必要はありません。一方で「民藝調」という虚弱な言葉に失速もしていった、「強い美」へのカウンター・カルチャーとしての「民藝」ではなく、「弱さの美」を新たに獲得するための「古道具」――それが今回、氏が見せてくれた断片の集積ではないでしょうか。

松濤に足を運ぶまで、坂田氏の収集品に直接触れたことのない私の頭にはある種のすれっからした「珍奇の箱」、西欧バロック期の“ブンダーカマー”の変化球のようなイメージが再三よぎっていたのですが、そのようなモノマニアックな蒐集とは遠く離れて位置する、しかしながらまた素朴を強要する「民藝」のイデオロギッシュな強度とも異質な何かが、ここには提示されています。

今回の展示をゆっくり見て回ると、静かな館内で、それぞれの断片たちが、自分たちの来歴をぶつぶつと小さくつぶやき始めるような思いにとらわれます。その声をじっと聞き取る名人が坂田氏であるわけですが、冒頭で述べた「何かを選び取る」という二次的な行為を真に創造的な作業へと逆転させるのが、ものと向き合う時の真摯な氏の眼の力なのでしょう。そこが「古道具」が現代の芸術とまともに対峙し得る姿を見せる今回の展覧会の最大のポイントではなかろうかと感じます。
いずれにしろ、ただの「もの」たちのつぶやく来歴と静かに対峙する、古道具を愛でるという行為の刺激的な面白さを、坂田氏の創造力に満ちた眼を通して今回改めて学んだように思います。

・・・
『古道具その行き先 坂田和實の40年』展

会期:2012年10月3日(木)~ 11月25日(日)毎週月曜日休館
時間:10:00 ~ 18:00(金曜は10:00 ~ 19:00)※入場は閉館の30分前まで。
会場:渋谷区立松濤美術館(東京都渋谷区松濤2丁目14番14号)
主催:渋谷区立松濤美術館
協力:株式会社大和プレス
HP:http://www.shoto-museum.jp/05_exhibition/index.html#A002